逸話

 私は一流の人間のインタビューや伝記が好きです。
 一流の人間は「こうありたい」というモデルなしに一流になれますが、私のような二流の人間は、モデルとなりうる人間の逸話やエピソード(同じか?w)を知って、自分との差を少しでも埋めるという努力、あるいは方向性を確認しないと、なかなかモチベーションや目標が持続しません。
 話は逸れますが、「誰にも替えることができない、オリジナルな自分」でありたいと思いますか?
 もちろん、生まれただけで、それは何者にも替えがたいオリジナルな自分なわけですが、ここでいうオリジナルというのは、誰も先人が気がつかなかった偉業を成し遂げる、という意味でのオリジナルです。
 幸いなのか、欲が薄いのか、私はそういう考えに至ったことはありませんが、20代の人と接していると、漠然とながら、このような自分への期待を(無根拠に)持っていると感じることがあります。
 それが前向きな努力に繋がっている時は良いのですが、得てしてこういう感覚を持っている人は、ほどなくして自分の才能に挫折することもあるようです。
 オリジナルという響きは、非常に魅惑的な響きですが、残念ながら、そういう一流の人間はそうそう多くは無い、と私は思っています。
 ただ、ここで注意しなければならないのは、オリジナルなものがなければ、その人の人生に意味がない、ということにはならないということです。
 どんなに小さな事。例えば、毎日、ただひたすらにルーチンワークでおにぎりを握るだけの人生にも、そこには人生の喜びと意味はあります。
 ノーベル賞級の研究を、というのは研究者の悲願ではありますが、そうそうそこにたどり着けるものではありません。
 話が逸れましたね。逸話の話です。
 「昔の人は」という言辞を出すと若い人には嫌われそうですが、まぁ、素直に聞いてみてね。
 私が学生の頃の話。
 ある人が、先生に文献を借りました。数百ページある入手困難な文献を借りた人はとても嬉しかったのですが、帰り際先生にこう言われました。
 「明日には読み終わるだろうから、明日返してくれればいいよ」
 数百ページですよ?読めますか?ええ、私は無理です。
 ただ、その先生は嫌味でもなんでもなく、自分の感覚で言うと、そのぐらいが普通だということです。学生は驚きながらも、徹夜で読破して返却したそうです。
 また別の先生の話。ある大学の教授は、学生時代指導教授にこういわれたそうです。「論文は、実験の合間に歩きながら読むもの」。もちろん、その指導教授も、座って論文を読んだことはないそうです。今は、たぶん座って読んでいるでしょうけどね。
 「そんなの無理ですよぉ〜」と今、思いました?
 ええ、私もそう思います。一晩で200ページ読んだり、実験の合間に立って論文読んだりできませんよねぇ。
 ただ、その逸話は神話化されたものであるかもしれませんが(大体、年寄りの話ってのは、誇張されている可能性が高いw)、「そういうものもあるかも」「俺ももちょっとがんばろう」と素直に思ってみることも大事かもしれません。
 「できない」と思った瞬間に、できることも出来なくなります。だから、「できるかな?」と、ちょっとだけ留保条件をつけて、「やってみようかな?」と思ってみることは大事ですよ。
 「科学とは、疑うことから始まる」と言われますが、一方で「物事は、信じることから始まる」とも言えます。
 常識というものは、時と場所で変わります。ま、価値相対主義ですね。しかし、価値を相対化するためには、いかなる諸価値があるのか?平たく言えば、この業界の常識にはどんなものがあるのか?というのを知ることは、自分の位置関係を知るのにも必要です。
 インタビューや伝記には、そういうものを手っ取り早く知ることができる利点があるんですね。
 今日は終戦記念日です。かつて戦争を体験した人々の「常識」をたまには聞いてみるのもいかがですか?