学び方を学ぶ

 さて新年度ですね。江口研究室のみなさんは、あと約半年で、修論、卒論を仕上げなければなりません。あっという間ですね。がんばってください。

 さて、今回は、本の紹介。

内田樹の『日本辺境論』。

日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
(2009/11)
内田 樹

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 ちなみにこの本、新書大賞2010のベスト1に選ばれていた。

新書大賞〈2010〉新書大賞〈2010〉
(2010/02)
中央公論編集部

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図らずも購入した、しかも、たまたま友人の紹介記事を読んで知った作者で、かつ、一気にのめりこんだ作者がナンバー1になるというのは、なんとなく誇らしい気分になる。

これまでに読んだ彼の本は、

こんなのや

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)
(2009/07/15)
内田 樹

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こんなの

子どもは判ってくれない (文春文庫)子どもは判ってくれない (文春文庫)
(2006/06)
内田 樹

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これも

知に働けば蔵が建つ (文春文庫)知に働けば蔵が建つ (文春文庫)
(2008/11/07)
内田 樹

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あー、これは松島君に貸そうと思ったヤツ。

私の身体は頭がいい (文春文庫)私の身体は頭がいい (文春文庫)
(2007/09/04)
内田 樹

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すっかりハマっております。
特に私は、彼の教育論というか「学ぶとは?」という論考にすっかり傾倒しております。

 詳細は、是非是非、彼の著作を読んでいただくとして、簡単に言えば、

「学ぶ者は、学びの師を選択する時に、それを判断する基準を持っていない(=故に学びに動機付けられる)」
「なんだかわからないけど、この師についていこうという直感にしか頼ることができない(それは日本人の特筆すべき特徴である)」

 これを彼は、自身の合気道習得の経験や能の体験などを引きつつ、すぱっと論理明快に説いていきます。

 私が彼の説に激しく同意するのは、私にも似たような経験があるからです。

 大学1年の春、私は3浪の末憧れの大学生活というものに飛び込みました。仕送りが期待できない家庭環境だった故、働きながら私立大学に通う私は、1円でも元を取り返すぞ、という気合に鼻が膨らんでいたことでしょう。
 可能なかぎり履修可能な授業に登録し、私は火曜の7限(だっけかな?)の『美学』という授業の第1回目に参戦しました。1時間半の講義を受けた私は愕然とします。無垢で無知な田舎者の私は「多分、上手にイラストが書けたり、絵を描く理論を教えてくれるんだろう?」と考えていました。しかし、内容は全く異なりました。そもそも、美学とは、哲学の一ジャンルで、絵を描く技術などを教えてくれるものではありませんでした。
 「一言もわからない(笑)」。教壇に立つ教員が繰り出すコトバの、そのことごとくがわからない。いや、そこで展開されているのが日本語だってことはわかりますよ。
 ロラン・バルト?相撲取りの親戚か?(いやいや、当時はそういう相撲取りはいませんでしたし、そもそも、バルト3国というコトバさえありませんでした)。アウラ?ラウラ・アントネリなら知ってるぞ(ちなみに、1970年代に中学生の心をわしづかみにした、イタリアのソフト・エロ映画『青い体験』の女優さんw。

 みたいに、使われる単語の意味から、概念まで、全てがわからない。こんな体験は初めてでした。まさに衝撃の体験。まだ、コトバのわからないイタリアに旅行するほうが了解可能です。

 「これが・・・大・・・学・・・?」

 この時、私は大学の奥深さと己の無知を悟りました。これでも、それまで私の暮らしてきた生活世界では、私は知識が豊富で大人びているとの評価を受けていたのですが。まさに、「井の中の蛙大海を知らず」。

 大分横道に逸れました。

 その講義が終わった後、私はある衝動を抑えきれず、教壇に近づき、その全く理解不能な講義を1時間半しゃべくりまわった先生に向かって言いました。

 「先生は、何が言いたいんですか?」

 ほとんど小学生並みのリアクションですw。

 しかし、私は、その教師に喧嘩を売りに行ったのではありません。何を言っているのかわからない、しかし、そこには私を惹きつける何かしら重要なものがありそうだという直感に導かれ、彼(=教師)に少しでもヒントを貰おうと思ったのです。
 その時、彼が何と答えたのかは、今となっては記憶に残っていませんが、いずれにせよ、私は、その学問が私に必要そうだという直感のみによって、その学問に動機付けられたのです。そこには、「この教師は、フランス哲学、なかでもベルクソンが専門で、その研究では、国内ではそれなりに評価されている。哲学における美学を究めるには、彼についていくことが妥当な選択であろう」などという、客観的な評価と判断力を私が有していて、彼に白羽の矢を立てたわけではありません。

 「なんだかわからないけど、この師についていこう」

 なのです。

 その後結局、彼は私の大学4年間の生活の中で、最も多く時間を過ごした教師となり、彼を中心とした友人たちとは、今でも親交を続けています。

 しかし、最近の教師(あるいは、教育)に対する学びの態度はいかがでしょう?

 内田は書きます。

 学び始める前に、「教える者」に対して、「あなたが教えることの意味と有用性について一覧的に開示せよ。その説明が合理的であれば、学ぶにやぶさかでない」というような(わりと強気な)態度

 典型的には大学のシラバスも同じ教育思想に基づいていると内田は言います。

 つまり、教育が商品になっている。スーパーの野菜を値踏みする態度と同じ態度で、教師に、教育に向かっている。

 これに対し内田は、

 学び始める前に、これから学ぶことについて一望俯瞰的なマップを示せというような要求を学ぶ側は口にすべきではない。これは伝統的な師弟関係においては常識です。そんなことをしたら、真のブレークスルーは経験できないということを古来日本人は熟知していた。

 単純にこの引用だけを読めば、「何古臭いこと言ってんだよ。ぶゎぁか!」と思われるかもしれません。彼の著作を読めば、あなたもその真意がわかると思いますが、いずれにせよ、私には、経験的に彼の言っていることがよくわかるし、私は実践してきたつもりです。

 ただ、一方で、実際に学生に指導をする場合は、私が指導する内容が、他愛もないスキルということもあって、かなり念入りに、「これを覚えると、こんなに幸せだよー」などと功利的な理由を並べ立てて説得しているのですがw。

 ただ、本質的に学ぶという行為が持つ非対照性と、予見不可能性については、理解しているつもりです。

 さらに、ここから話は武士道に飛び、努力と報酬の相関(努力に見合った結果が得られるということ)を根拠に行動することが武士道に反するとした新渡戸稲造に同意しつつ、昨今の「功利的な学び」の原理的な矛盾と非効率を述べていきます。

学び方を習得した人間は、どこに行っても使える人間になります。全く異なる分野に進んだとしても、何故か自分の習得した学問で、その世界を理解できるようになります。

 だまされたと思って、一読されてはどうでしょうか?