オマエにわかるのか?っつーの!

で、思い出した。評価の話だ。
大学に入学して僕はモダンジャズ研究会ってヤツに入った。入学までに3年ほど寄り道させていただきましたので(笑)、同級生には年下が多い。んで、現役で入った先輩には、同じ歳ってのが結構いる。まぁ、僕の行った大学は、1浪、2浪はおろか、3浪、4浪、5浪とかいたので(笑)、年齢なんか気にしてられないのだが。
んで、ある時演奏会か何かの打ち上げで、3年生のテナーサックスの幹事長の横に座った。佐野さんというその幹事長は、生年は同じなので同じ歳ではあるのだが、大学では、僕は1年生で、彼は3年生であるので、当然敬語で話す。そこに問題も違和感もないのだが、話をしている中で「佐野さんのテナーかっこいいっすよねぇ〜」と僕が先輩を誉めたことがある。何気ない会話であるが、その時佐野さんはこう言った。「後輩が、先輩を誉めるものではない。10年早い」と。一瞬僕は、何を言っているのかわからなかったが、後に痛く感心した。要するに、評価のモノサシを持っていない者が、他人を評価するという行為が不遜で失礼であるということだ。ヒヨッコのオマエに何がわかる?ということだ。
これは今でも僕の心に深く刻まれているし、常に年配者に会う時は気にしている。年配者だけではない。年下でも、僕が意見を言える立場ではない領域の人=尊敬できる人に会う時は、この点に気を使っているつもりだ。
これって、見方によっては旧態依然とした封建的な思想のように思う人もいるかもしれない。確かにそういう部分もあるかもしれない。まぁ体育会系のノリに近いかもしれない。でも、最近思うのだが、こういう発想って大事だと思うのだ。人権教育だか平和教育だかなんだかしらんが、妙に社会が均質化している。パパやママは物分りがよくなりすぎて、お子様が増えている。失礼な物言いや、傲慢な態度に気づかずに、アチコチで不快な空気を垂れ流している輩が増えている。己のモノサシが小さなものであるという自覚もなしに、というより全て世の中が同じモノサシで図れるものという前提で周りを見すぎている。
書いたかもしれないけど、ようやく1本目の論文が出来上がった。尊敬する先生に何度か見てもらったのだが、そこでも同じようなセリフを貰った。「一番いけないは、実力の無い者が満足出来るまで投稿は出来ない、なんてことです」。実力のない人間が、自分のモノサシで満足行くまで論文をこねくり回したところで、そのモノサシでの満足など、所詮社会に出た場合=投稿した場合、世間を満足させられるものではないということだ。さらに、満足などに到底及ばないということだ。ここにも、モノサシに対する洞察が見え隠れする。個人としての満足や興味というものも動機の形成や自己信頼の向上などで意味がないわけではない。しかし、行為のゴールは、それが社会関係において意味があるのかどうか、ということだ。所詮、個人の満足なんてものは、オナニー以外の何物でもない。それを自覚しないと、意味のない名刺を自慢するだけの、害悪にしかならない人間になってしまう。いたずらに他人の貴重な時間を浪費させ、場合に寄っては、不快な気分にさせることもあるのだ。
誉めれていれば、コミュニケーションが上手く行くのだ、みんな喜ぶものだ、とどこか軽く考えているところがある。僕もそうだった。しかし、誉めればいいってもんでもない。人間関係の文脈に対する、繊細で深い観察が問われなければならないと思う。それを大学時代に、同じ歳の先輩から僕は学んだ。このエピソードだけで、僕は、このサークルに居た意味があるというものだ。このエピソードの時点で、確かに佐野先輩と僕は、生物学的には同じ年齢ではあった。しかし、社会的年齢という意味においては、大人と子供ほどの開きがあったのだ。生物学的年齢が、唯一のモノサシではないということも、僕は同時に学んでいた。