1122だ!

で、別れは突然やってくる。今日久しぶりに友達の女の子からメール。「本日、入籍してきました!1122(いい夫婦)にちなんで(笑)」だそうな。いや、別に付き合っていたわけじゃありませんので、別れっていうのもおかしな話ですが。
このコとは不思議な出会いだった。大阪に出張した時に取引先の接待で初めて入ったキタの新地のクラブで僕は彼女と出合った。一瞥した瞬間、好みの容貌であったことは確かだが、残念ながら名刺を貰っただけで、こちらの名刺を渡すことも無く、ましてや挨拶以外の会話をすることも無くその日は終わった。出張から帰り名刺を整理していると、このコの名刺にはメールアドレスが記載されていた。その当時、まだまだメールは一般化しておらず、メールアドレスの入った名詞を貰うのも初めてだったので、挨拶程度にお礼のメールをした。ここまでは、通り一遍のご挨拶であった。ところが、このクラブは、毎月会報のようなものを発行しており、在籍する女性の日記ともエッセイともつかぬ文章を紹介がてら掲載してあった。それはインターネットでも公開してあり、暇に任せて僕は彼女の文章に目を通して、彼女の文才に感動したのだ。インスパイアされたというのが一番しっくりするかもしれない。そこで俄然興味が沸いたのかもしれない。一言で言えば、彼女の文章は異彩。他の女の子たちが「こんちわぁ〜」あたりの書き出しで始まるのに対し、

《飽きを感じる時の貴方へ》海月と泳いでいる夢を見て目が覚めた。昨日のお酒がまだ抜けきれていない。仕事の話を肴にみんなと飲んでいた。意見もしたが思うように話が出来なかった。そして何処からだか記憶が曖昧である。ベットから立ち上がると体が火照りだし、血圧が上がる。肉体的感触と精神的感情とが変に混ざり合ったものが五官を通じてそれを私に伝え、夢の中ではなく現実の場所にいる事を確認させた。窓から降り注ぐ光を浴びながら「生命とは人々の幸福のために天から下った光の伝播である。」と孔子の言葉を口ずさみ、一日のスタートに踏み切った。

これだ(笑)。孔子の言葉を口ずさみ、と来た。これは別に、文芸雑誌のコラム欄ではない。悪く言えば、飲み屋のおねーちゃんを紹介するPR誌での日記なのだ。一体何物?と誰しも思わざるを得ないだろう。こうして、間歇的ではあるが、不思議なメールのやり取りをすることになる。
彼女のプライベートは朧気ながら分かるものの、せいぜい、店を辞めただの、新しい仕事し始めただのという表層的なやり取りだけで、一向に本質に触れることはなかった。それでも、毎月掲載される彼女の文章をネットで読んでは、時折メールで感想を送るという関係が続いていた。いつしか彼女は僕をお兄ちゃんと呼び、僕は彼女を妹と呼ぶようになっていた。ほのかな恋心とも親心ともつかない不思議な空気が流れていた。その店を訪れたのは、2000年の4月であるので、もう4年半が経過していた。
その彼女から今日入籍のメールを貰ったのだ。受け取った瞬間、不思議な感慨とともに、一つの終りと始まりを予感した。一体どんなメールのやり取りをしたのだっけ?と過去のメールを読み返してみた。まだ間もない頃のメールには次のように書いてあった。

凡そ飲み屋のPR紙への投稿とは思えぬ(失礼)貴女の小文は、暇つぶしに入った名画座で偶然出会ってしまった佳作に涙してしまったかのような気分を覚えました。美しき病床の幼なじみとの約束はその後どうなりましたか?少し気になります。
先日、弊社が後援した講演会で、精神神経薬理の教授が講演の冒頭こう切り出しました。「我々は死を約束して生れてくる」。死が不可避である事は自明の理ですが、ともすれば受動的死を「約束」という能動に切返したこの台詞の迫力に、暫し二の句が告げられない思いでした。
最近「しあわせ」ということを良く考えます。僕はしあわせだろうか?君はしあわせだろうか?と。しかし、司馬遼太郎歴史小説の中である表現に出会い、この問いには落とし穴がある事に気付きました。「仕合せ」。「幸せ」ではなく「仕合せ」。
ここからは僕の勝手な想像ですが、元来、日本には幸福という概念はなかったのではないか。日本人のシアワセとは、正に仕合せではなかったのではないか。
大辞林によれば、仕合せとは、(1)めぐりあわせがよい・こと(さま)。幸運。幸福。「友人の―を祈る」「―な生涯」(2)めぐりあわせ。運命。「我はそも、何時ぞやも言ふ如く、―も悪ければ/仮名草子・竹斎」(3)ことの次第。始末。「無念ながらも長らへて、さて只今の―なり/浄瑠璃・出世景清」とあります。
めぐりあわせ。それは極めて偶然性の支配する事象に他ならず、自意識から最も遠い境涯です。僕のイメージでは、仕立て合わせ、着物の襟の収まり具合がしっくりと行く状態が思い浮かびます。つまり、自意識の埒外にあって、たまたま上手く納まること。それを、極めて受動的に享受する心理状態、それを日本人は仕合せと表現したのではないのか。
とするならば、仕合せは局地的、一回性のものであり、しかも、容易に代替可能な境地である可能性がでてきます。しかしながら、「僕はシアワセだろうか?」という問いには、排他的、絶対的な幸福の境地の想定が想像されます。僕の問うた自問は、構造的に破綻していた可能性が示唆されるのです。
幸せは、いつかどこかで自ら手に入れるものではなく、今、ここで、たまたま出会えた事そのものが仕合せである。そう最近思えるようになり、なんとなく肩の荷が下りたような気分がします。
われわれは、受動的死に苦しみ、能動的幸せに苦しんでいます。所与の自明と見える観念に知らず知らず縛られているようです。しかし、それはまた、容易に交替可能な苦しみなのかもしれません。
白隠禅師は、禅の境地を「へつらわざるなり」と説明したそうです。「こだわっちゃダメ!」。一見無責任なこの発言は、しかしながら、能動と受動、善と悪の二項対立を融解し、自意識という囚われを解体した後に立ち現れた時、重くかつ軽やかな癒しを与えてくれそうな気がします。
宗教学を修めた貴女に禅の話とは、厚顔無恥も甚だしい事ですが、ふと見つけた貴方の小文に触発されて書かされたこの小文も、それはそれで仕合せなことなのかもしれません。
このような、関係性のつながりこそ、間主観性と呼ばれるものかもしれません。

ちょっと、文章に感動したので、なんか自分も書きたくなったのね。お目汚し失礼しました。それではお元気で。

彼女との出会いは、正に「仕合せ」だったのかもしれない。彼女の未来を素直に祝福する。
仕合せな兄より